『「それヤレんの?」:フェムボット現象』(“Can you fuck it?” — The Fembot Phenomenon)は、女性の外見をした新開発ロボットがメディアで発表されるたびにオンラインに散見されるコメントを引用したタイトルである。「おお、すごい、でもそれヤレん
の?」——ネット上の無数の匿名者が言う。ただ、場合によっては一理はある。例えば、いかなる理由もないのにロボットが(女性的)性別をもつガイノイドである場合。そのロボットがラブドールを思わせる受け身なふるまいをしていた場合。その「不気味」さと人間未満性をちらつかせつつも、人を喜ばせるためにプログラムされているとメディアが描写した場合。あるいは、近い将来に、私的な空間でのプライベートな使用のために皆がそんなロボットを所有するかもしれないと仄めかすような報道がなされた場合。こういった場合に多くの人の心は、自分の夢が現実になりうるテクノ・エロティックな状況を想像せざるを得ないように調整されてしまっているのだ。多くの人は孤独で、社会的孤立や不安の解消法を探している。私達のテクノロジーへのアプローチは尽力と献身という基盤の上にある。つまりこれらの扇情的なアンドロイドも実際には、A.Iリサーチ、ホテルのレセプション業、あるいは老人介護などのためのものなのだ——私たち自身の文化的仕組みと相反して。
林欣のロマンチシズムには強張りがある。フェムボットの理想像という重荷は、彼女の描く優美な機械生物の肩にさえのしかかっているのだ。ロボティックでありながらも、裸性、脆弱性、そして時折哀しさが、その形状から醸し出されている。多くの場合、これらフェムボットは相互な繋がりをもつかのように、姿見えぬ鑑賞者に対して配置され、目くばせをしている。仮面を手に持ったり、顔を仮面のように取り外している様子は、彼女達のその人工的そして汎用的な社会性が、ごく慎ましいやりとりの中でさえ目に余るということを示唆している。林欣は、彼女達の内面的生や態度をめぐる思いを物憂げな作品タイトルに託している——『私はあなたののぞむまま』(I’m What You Wish Me to Be )、『おぼえのない悲しみ』(Sadness Never Seems to Have Had)、『美しき悪行』(Beautiful Misdeed)、『あなたは私を求めるだろう』(You Would Miss Me)、『金属の仮面』(Metal Mask)( 訳者意訳)。感情と欲望を自身に接続されつつも、鑑賞者の内面にそれらを呼び起こす能力があると自認した林欣のフェムボット達。巨大な油彩画に投影された彼女達から放たれる、現代的疎外感の冷たい奔流には「私たちの渇望がはっきり反映されている」と作者は語る。練達の油彩画とハイテクな主題のコントラストは、主題に反するようなぬくもりの下地をキャンバスにもたらしている。
林欣のフェムボットは、生物科学者から芸術家へと転身したアンジェラ・スーの女性サイボーグの全身像の擬似科学ドローイング『Juno, Augustina, and Juliette』(2019)を思わせる。これらの(スーのいうところの)「苛烈な未来派フェムボーグ」は皮を剥がされて内容物が晒されているが、その内臓は私たちの身近なものである。人間の女性の、水気を帯びた柔らかい臓物。男性優位社会の好みには漏れ穴だらけで煩雑だと敵視されてしまったこの湿り気によって、スーは女機械の被る過酷さをやわらげる。その反対に、林欣は自身の主題がもつ実用的な内部機関を冷たい・固い・乾いたケーブル、コンデンサ、接続器としてまざまざと描き出す。故意的な視線と頻繁な故障を携え、複雑で集合的な力として、彼女らは性別をもつロボットに関する議論を力強く前進させる。
この意味論的な枠組みは、フェムボットをデ・フレンが「リアルなもの(the real thing)」とよぶ存在に仕立て上げる。つまり、古風に自己犠牲的、便利で、そして特に人間の女性と違って本質的に労働の影響を受けない存在として。この展示ではこの「リアル」の領域を、スーのウェットで複雑なフェムボーグの解剖図や、林欣の絵画における幻滅し、計算し、便利でないフェムボーグに予見されるような、潜在的にロボティックであったり超人間的な存在まで延長する。フェムボットという概念自体が批判的な小休止をうむならば、私たちはフェムボットの現実世界における使用、虐待、そして他との出会いをどのように捉えるべきなのだろうか?