『「それヤレんの?」:フェムボット現象』(“Can you fuck it?” — The Fembot Phenomenon)は、女性の外見をした新開発ロボットがメディアで発表されるたびにオンラインに散見されるコメントを引用したタイトルである。「おお、すごい、でもそれヤレん の?」——ネット上の無数の匿名者が言う。ただ、場合によっては一理はある。例えば、いかなる理由もないのにロボットが(女性的)性別をもつガイノイドである場合。そのロボットがラブドールを思わせる受け身なふるまいをしていた場合。その「不気味」さと人間未満性をちらつかせつつも、人を喜ばせるためにプログラムされているとメディアが描写した場合。あるいは、近い将来に、私的な空間でのプライベートな使用のために皆がそんなロボットを所有するかもしれないと仄めかすような報道がなされた場合。こういった場合に多くの人の心は、自分の夢が現実になりうるテクノ・エロティックな状況を想像せざるを得ないように調整されてしまっているのだ。多くの人は孤独で、社会的孤立や不安の解消法を探している。私達のテクノロジーへのアプローチは尽力と献身という基盤の上にある。つまりこれらの扇情的なアンドロイドも実際には、A.Iリサーチ、ホテルのレセプション業、あるいは老人介護などのためのものなのだ——私たち自身の文化的仕組みと相反して。

ロボットはセクシーであるべきだろうか? なぜ人間は、サービスロボットを私たち自身の(理想化された)イメージでつくってしまうのだろうか? 技術の進歩は何によって影響され、そして誰によって現状は「リデザイン」されるのだろうか? この問いをしっかりと考えるにあたって、モノ化された女性性の具象を既存の通念として提示してきた思考とともに、女性達の考えは周知されていかなくてはならないだろう。昨今では、それらの具象や先入観を複雑化するような女性アーティスト達の意見も「コメント欄にあがってくる」ようになってきた。

武漢で伝統的な中国絵画を修めた林欣(リン・シン)は、あからさまに「女性的な」ヒト型ロボットを描く。彼女の描くロボット達は見た目が似通っており、血縁、あるいはオリジナルの先祖がもはやそのレプリカントと見分けがつかないということを思わせる。彼女達は様々なシーンでポーズをとり、くつろいでる。家庭で、ディストピアンな(不)自然で、またあるいはヴァーチャルなシーンで、コンピュータスクリーン上に3Dモデリングされたかのように筆で描かれる。これらの設定は、これら模像フェムボットの一群を直線的な時間軸と物質的な空間から切り離そうという作者の試みとして近年の作品のなかで作り上げられてきた。林欣はヴァーチャル世界に魅せられており、そのなかに「ロマンチシズムを求めている」と語ったこともある。

リン・シン「私はあなたののぞむまま」no.2、2010、キャンバスに油彩

林欣のロマンチシズムには強張りがある。フェムボットの理想像という重荷は、彼女の描く優美な機械生物の肩にさえのしかかっているのだ。ロボティックでありながらも、裸性、脆弱性、そして時折哀しさが、その形状から醸し出されている。多くの場合、これらフェムボットは相互な繋がりをもつかのように、姿見えぬ鑑賞者に対して配置され、目くばせをしている。仮面を手に持ったり、顔を仮面のように取り外している様子は、彼女達のその人工的そして汎用的な社会性が、ごく慎ましいやりとりの中でさえ目に余るということを示唆している。林欣は、彼女達の内面的生や態度をめぐる思いを物憂げな作品タイトルに託している——『私はあなたののぞむまま』(I’m What You Wish Me to Be )、『おぼえのない悲しみ』(Sadness Never Seems to Have Had)、『美しき悪行』(Beautiful Misdeed)、『あなたは私を求めるだろう』(You Would Miss Me)、『金属の仮面』(Metal Mask)( 訳者意訳)。感情と欲望を自身に接続されつつも、鑑賞者の内面にそれらを呼び起こす能力があると自認した林欣のフェムボット達。巨大な油彩画に投影された彼女達から放たれる、現代的疎外感の冷たい奔流には「私たちの渇望がはっきり反映されている」と作者は語る。練達の油彩画とハイテクな主題のコントラストは、主題に反するようなぬくもりの下地をキャンバスにもたらしている。

スタイルについて言えば、林欣のスーパーリアルなフェムボットは、エロチックでカリスマチックな女性ヒューマノイドのイラストでカルト的人気を博した『セクシー・ロボット』(1983)の作者、またイラストレーター、デザイナーとして著名な空山基のそれを思い出させる。これらのガイノイドは『プレイボーイ』誌のモデルを模しており、パフォーマティブな距離感とプロフェッショナルな魅力を作り上げている。華々しいキャリアを通してこのガイノイド・ピンナップを描き続けた空山は、いまやシリコンと金属から現れるサービス・ガイノイドに対する「それヤレんの?」という反射的な問いかけの文化的貢献者とも捉えられるだろう。

リン・シン「教えないで」no.1、2009、キャンバスに油彩

林欣の作中にいる描かれたガイノイドは直接的に客体化されているわけではない。それらが自己客体化しているか、あるいは彼女達の主体性がアンビバレントなのである。とっているポーズが性やフェティシズムを惹起させようとも、空山基のガイノイドと違い、彼女達においては体内の仕組みが体外へと溢れでており、お茶をしながら、会話をしながら、あるいは外で、親しく交流しているようにたびたび描写される。知っての通り、女性的な仲間意識というものは、男性達が描き続けてきた望ましい女性像の様式からは除かれてしまっている。常に占有可能(いつでもどこでもOK)という要素を曇らせてしまうためだ(それはフェムボットにしてみれば最重要要素である)。

林欣のフェムボットは、生物科学者から芸術家へと転身したアンジェラ・スーの女性サイボーグの全身像の擬似科学ドローイング『Juno, Augustina, and Juliette』(2019)を思わせる。これらの(スーのいうところの)「苛烈な未来派フェムボーグ」は皮を剥がされて内容物が晒されているが、その内臓は私たちの身近なものである。人間の女性の、水気を帯びた柔らかい臓物。男性優位社会の好みには漏れ穴だらけで煩雑だと敵視されてしまったこの湿り気によって、スーは女機械の被る過酷さをやわらげる。その反対に、林欣は自身の主題がもつ実用的な内部機関を冷たい・固い・乾いたケーブル、コンデンサ、接続器としてまざまざと描き出す。故意的な視線と頻繁な故障を携え、複雑で集合的な力として、彼女らは性別をもつロボットに関する議論を力強く前進させる。

アリソン・デ・フレンの、表現方法の推移に着眼したフェムボット現象へのまなざしも、同じように寛容でありながら不穏だ。『それヤレんの?』展にて日本語字幕とともに放映されるビデオエッセイ『赤いドレスを着たフェムボット』は、2012年のデ・フレンの代表作『機械的な花嫁』の続編である。北米、英国、日本、ドイツで撮影された『機械的な花嫁』はライフスケールのラブドールから機械的なアンドロイドに至るまでの最新鋭の人工パートナーを調査し、その探究のベースを「完璧な人工女性」製造の追求の歴史に置く。Wired (ネット接続した)が「weirdly human(不思議に人間的)」と翻訳されるようなテクノセクシャルな情欲にディープダイブするデ・フレンの映像は、これらの物体や機械を作り愛する男たちを、またあるいはそれらの物体/機械「自体」も非人間化しないできた。

アリソン・デ・フレン「機械の花嫁」2012、ビデオ

これは歴史性によって底上げされ、隠微な好奇心によって縁取られた、彼女の多層的なアプローチがなした有意義な成果だろう。『機械的な花嫁』と『赤いドレスを着たフェムボット』いずれにおいてもデ・フレンは「中立」あるいはフェムボット現象のオーゼンティシティを拒否している。その代わりに、社会的由来や機能を巧みに説明しながら、フェムボット現象がはらむ数々のステレオタイプの限界について思いを馳せるように鑑賞者を挑発してくる。この状況の皮肉は、彼女は朗らかに認識している。

「『赤いドレスを着たフェムボット』は交尾への欲求という私たちが持つ最も基本的な生物的プログラム、つまり種の存続のために必要でありながら人間においてもっとも自動的で機械的であるプログラムについてのリマインダーなのです。人工的な構造物にこの生物的な衝動を加えることで、フェムボットは批判的ためらいの瞬間を(私たちに)もたらします。」

菅実花「未来の母04」2017、インクジェットプリント

この意味論的な枠組みは、フェムボットをデ・フレンが「リアルなもの(the real thing)」とよぶ存在に仕立て上げる。つまり、古風に自己犠牲的、便利で、そして特に人間の女性と違って本質的に労働の影響を受けない存在として。この展示ではこの「リアル」の領域を、スーのウェットで複雑なフェムボーグの解剖図や、林欣の絵画における幻滅し、計算し、便利でないフェムボーグに予見されるような、潜在的にロボティックであったり超人間的な存在まで延長する。フェムボットという概念自体が批判的な小休止をうむならば、私たちはフェムボットの現実世界における使用、虐待、そして他との出会いをどのように捉えるべきなのだろうか?

デ・フレンがメディアと文化によって広く拡散されているフェムボットのイメージを扱うのに対し、菅実花の作品は、ヤラれるようにデザインされた人型を直に扱うことが多い。『裸にされた花嫁』というビデオ作品では、POVポルノ(point-of-view pornography)、特に男性の参加者がカメラを操作し彼の主観的な視点でまぐわいを映すジャパニーズ・ゴンゾポルノのサブジャンル、ハメ撮りの手法を取り入れている。菅のカメラは等身大の人形の顔にフォーカスし、(画角外の)男性がそれとの性交にいそしむ間、その性的行動への人形の「反応」を男優の視点から記録している。緩慢なピストンながら、行為に励む彼の音を聞くことで彼、あるいは人形であるパートナーに私たちは自分を重ねるかもしれない。生きものでないパートナーとの行為ではこの視点からほぼ撮られておらず、その至近感を目の当たりにする快感がある。ラブドールとの深い関係というもの自体は以前から存在するが、これは強烈にプライベートで、ロボ・セックス前身とも呼べるものだろう。

菅の写真シリーズ『ラブドールは胎児の夢を見るか?』は、ロボティックな性的邂逅の後のサイボーグ的な余波に言及しているといえるのではないだろうか。というのも、写真の人形たちには妊娠の徴候があらわれているのだ。すでに大きい乳房はそのままに、お腹を膨らませるボディ拡張がなされている。人形を切り、改造し、様々なポーズで被写体にすることで、菅は大型ヌードに祝賀的な空気を演出する。女性のみの世界で身振りをしながら、彼女達は予兆によって「紅潮して」いる。このシリーズにおいては、生殖という領域にここまで純粋にセックスの暗示を託していることにユーモアが感じられる。しかし、彼女らはあくまで幸福で従順な器なのだろうか? あるいは、シリーズのタイトルにも引用されている夢のおかげで、これらの人工女性たちは伝統的ではない方法で妊娠する方法を編み出したのかもしれない。すべて、彼女たちが自分たちでやったことなのかもしれない。

私は私自身の作品において、超人間的存在の運命や潜在的な多様性について頻繁に想像する。例えば、ハイブリッド・ヒューマンは人間が現在行っているような方法で繁殖するようになる(ことができる)だろうか? もし、合意的、非合意的、あるいはサービスによるセックスによってサイボーグが妊婦(ともよべる状態)になったとしたら? 『ラマッス・ケンタウロス・和牛』というビデオ・ポートレートのシリーズでは、フェムボットと家畜牛の合成動物をつくり、そのハイブリッドのなかの一頭が、母親よりさらにヒューマノイド要素の少ない二足歩行のカエルの幼獣を産む。シナリオのなかにはカエルの「父親」はいない。性交と生殖は分離し、フェムボットは進化する。

『計算』というビデオでは実際の、人間大のガイノイドがデータセンターの中に座り、何かを言っている。有名なゲーム番組の頭脳派女性司会者たちが実演したフラッシュ暗算(テレビを通して一般の家庭に浸透したややレトロ・ロボティックな仕事である)のグーグル/YouTube検索結果の1ページ目を音読しているのだ。ロボットがピックアップしていく結果のほとんどは女性司会者たちの数学の妙技には無関係な、いやらしいものである。むしろ、ネットの集合精神は彼女たちの控えめな所作や服装を「どエロい」と結論づける決意をしているように見える。胸、ペニス、そして特定の赤いドレスを執拗に追う。要するに「あなたは彼女とヤレるのか?」と様々に違う言い方で問いかけてきているのだ。

『計算』におけるベーシックなフェムボットは「彼女」自身の状態に関する知識を探している。デ・フレンの作品が提供するような、歴史的そして審美的なコンテクストを。しかし、他の被造物のように、彼女も自身の生まれによって制限されていると感じている。ヒト型ロボットの領域は、前提的に存在する社会的偏見にどれだけ純粋に問いかけをのせることができるかということの典例だろう。『「それヤレんの?」——フェムボット現象』はバランスを目指す処女航海だ。フェムボットに関する作品を制作する女性に焦点をあてたフレッシュな話題の展覧会である。

訳者:秋山珠里
トップイメージ:リン・シン「風の強い空間」no.2、2016、3つチャンネルビデオ、音声あり


オープンコール展示
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